「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」(マルコ3:28-29)

許されざる罪を犯した人物の姿は、文学作品の中において強烈に描かれています。例えば、ブンヤンの「檻の中の男」などはその好例でしょう。また、ジョージ・ボローの「ラベングロー」において、怒りの叫びとともに夜の静寂を破ったウェールズの説教者ピーター・ウィリアムズなども一例です。「聖霊に対する罪!ああ、聖霊に対する罪!」と、彼は自らがその重大な罪を犯してしまったと悟ったのです。また、エドモンド・ゴスの「父と息子」に登場するページェット氏、自らが聖霊に対する罪を犯したと確信してしまったため、自分の魂の救済を投げ捨ててしまった人物、などもその一例です。ページェット氏は公私いずれの場面においても、自分のおぞましい霊的な状態について話すことを好み、彼が「許されざる罪」を犯してしまったことを告白する時は、奇病にかかってしまった人が時々感じてしまうある種のぞっとするような歓喜とともに、声を一段下げて話すのでした。話を聞いたすべての人は、ページェット氏から一時的に、または永遠に、すべての希望を奪い取ってしまった聖霊に対する罪とは、具体的にどのようなものなのかということを知りたいと願ったのでした。私自身の父親さえも、聖霊に対する罪の特性について特に精通していたということはありませんでした。

しかし、これはとんでもない話です。なぜなら、「罪」は、ページェット氏の想像の世界にのみ存在しているからです。
現実の世界においても、その「罪」を犯してしまったと信じる人達よりも魂の治療を必要とする苦悩の状況はわずかに存在するのみです。すべての罪が許されるという福音の確証が与えられる時、また、「イエスの血は、すべての罪から私たちを清める」(1ヨハネ1:7)ことを思い出させられる時、(そのような罪を犯してしまったと悩む)彼らは既に解答を得ているのです。しかし、それでも一つの例外があり、そして、彼らはその罪を犯してしまい、それゆえ、その他のすべての種類の罪の定義により、そこには赦しがないと考えてしまうのです。主ご自身もそうおっしゃっているのでは?(と彼らは考えます:前田追加)そして、罪を犯してしまったという悩みそのものが、彼らが罪を犯していないということを証明するという確たる事実を指摘されると、彼らは耐えられなくなるのです。 では、イエスがこのように言ったとき、彼は何を言わんとしたのでしょうか。彼の言葉は二つの福音書に収められています。ルカは、人の子や聖霊に関する一連のたとえの中にそれを収めています(ルカ12:10)。しかし、マルコは叙述的記述の中に収めています(また、マルコとルカのそれぞれの記述は、マタイ12:31-32において連結されています)。 マルコによると、ユダヤ律法の律法学者達は、エルサレムからガラリヤに、話に聞いていたイエスの御業を、とりわけ彼が行っていた悪魔払いの御業、悪霊に取り付かれ、苦しんでいた人々から悪霊を追い払う御業を、検証するためにやってきました(この記述は、極めてリアルな、悲惨な状況を表しています。今日においては、別の単語をもって記述されるべきところでしょう)。検証の結果、律法学者達は奇妙な結論に達しました。「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」とも言いました(マルコ3:22)(ベルゼブルとは、以前はカナン人の神「高きところの主」の名でしたが、イエスのこの時代のユダヤ人達は、深遠の支配者、悪霊の住処(すみか)を意味する言葉として使っていました)それを聞いた時、イエスは、サタンの力はサタンの助けによって覆されるという発言に対し、馬鹿馬鹿しさを表明しました。さらに、この馬鹿馬鹿しい結論を下した律法学者達を、聖霊に対する冒涜の罪を犯したとして非難したのです。なぜなら、彼らは自らの勝手な判断をもって、聖霊の働きを悪霊の行為としたからです。

どんな種類の罪についても、また、どんなかたちの冒涜や悪口についても、神の赦しは与えられるとされています。恐らく、その罪が悔い改められた時はなおさらでしょう。では、聖霊に対する冒涜の罪を悔い改めた者についてはどうでしょう?その者に赦しは与えられないのでしょうか?
答は、この罪の性質、つまり罪を犯した者が罪を悔い改めないところにあり、つまり、罪を犯し、犯し続け、それでいて罪を犯していることを知らないというところにあります。マルコは読者に、イエスがなぜ律法学者達を聖霊に対する冒涜を犯したとして非難したかを伝えています。なぜなら、それは彼らが「イエスは汚れた霊につかれている」と「言っていたから」(マルコ3:30)なのです。イエスは神の王的な定めを公布し、心の病んだ者、悪霊に取りつかれた者への彼の癒しの提供は、その神の王的な定めの具体的な恵みであり、イエスの伝道活動における現実であったのです。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ11:20)(マタイ12:28においては「神の指」という言葉が「神の霊」に置き換わっています)。もし、人々がイエスのこの御業、人々の体と心に対する安らぎを与えている御業を見て、それを巨大な霊的な抑圧者、例えば悪霊のかしらの力によって行っていると考えたのなら、光に対する彼らの目は堅く閉ざされ、光は闇となり、善は悪となるのです。光を受け入れる者に光はそこにありますが、光を拒む者に対しては、どこで輝きを得させることが望めるでしょうか?

パウロがクリスチャンを迫害し、さらに「強いて御名をけがすことばを言わせようとし」(使徒26:11)さえしていた頃、彼は聖霊に対する罪を犯していたのでしょうか。もちろん違います。なぜなら、1テモテ1:13に記されているように「信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けた」からなのです。しかし、もし彼がダマスコへ向かう途上で光を見、主自らの声を聞いたにもかかわらず、目を閉じ、耳を塞ぎ、迫害行為を継続していたのならば、その時点で彼は「永遠の罪」を犯すことになるのです。自らの行為を罪と認識せず、そのための赦しを求めることもせず、逆に神の業を実践しているのだと考え続け、彼の良心もまったく動揺することなく永遠に固定化していたことでしょう。 既述したとおり、ルカは彼の記述を違った文脈で綴っています。ルカもイエスがベルゼブルの助けをもって悪霊を追い出したとされた記事を記述していますが、それを前章において行っています(ルカ11:14-26)。しかし、そこでは聖霊に対する罪については何も記述されていません。イエスのこの罪に関する発言はルカ12:10において「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」(ルカ12:8-9)という発言の直後においてなされています(その発言の後半はマルコ8:38、ピリポ・カイザリヤ村近郊でなされたペテロの信仰告白の直後の箇所の平行箇所です)。そして、イエスの聖霊に対する罪に関する発言の後、ルカは「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」(ルカ12:11-12)というイエスの命令を記述しているのです。この箇所はマルコ福音書のオリヴェト講演の中に平行箇所があります(マルコ13:11)。そしてこの箇所はルカ福音書ではルカの記述として引き継がれ、つまり、聖霊ではなくイエスが弟子達に「ことばと知恵」を与え、彼らの反対者に抵抗するようにという記事を構成しているのです(ルカ21:15)。なお、マタイ福音書では12使徒派遣の記事の部分に平行箇所があります。「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」(マタイ10-19-20)

ルカは、それから、聖霊に対する冒涜の話を、聖霊の、人の子(イエス)を告白する者の防御を司る導き手としての聖なる役目についての話と、この世的な人の裁きの前に、正しい時に正しいことを告白する聖霊のイエスの権能的告白者としての話との、中間に位置させています。この文脈においては、聖霊に対する冒涜について、マルコとは違った点が強調されています。ルカによると、聖霊に対する冒涜は、イエスの弟子達をイエスを否定することから救い出す聖霊の強力な力の拒否を伴うものであり、結果的に棄教へと至るものであります。もしそうであるなら、この文脈における聖霊に対する冒涜とは、棄教、つまり主イエスとの自発的で決定的な断絶と同一なのです。この箇所は、新約聖書において、棄教という取り返しのつかない悪について警告している唯一の箇所ではありません。他の良く知られた箇所としては、救いの唯一の手段を拒否したのであるから、棄教者を悔い改めに立ち返らせることはできないと記したヘブル書6:4-6が挙げられるでしょう。

マルコ福音書第三章

「聖霊を冒涜する罪」について