とどのつまり、サラリーマンとは、特定の目的を目指す組織に最適化されるためのパーツであるわけだが、そのようなパーツに喜んでなろうとする輩がいる一方、そのようなパーツには絶対になりたくないとする輩もいる。漏れはどちらかというと、というか、ほとんど絶対に後者に属するが、漏れの見たところ、今日のほとんどの日本人は、圧倒的に前者になろうとしているものと思われる。漏れが以前属していた会社で、上司が求める形の完璧な稟議書を作り上げた30代サラリーマン氏は、実に見事なパーツであった。そして、その稟議書を求めた上司自身も、より大きな機能を果たす別のパーツであった。パーツ同士が見事に組み合わされ、あたかも日本の今日のお家芸である自動車製造業で作られる自動車のごとく、無駄のない構成がなされているのである。

 ほとんどの日本人がパーツ志向であることは、未だに大学の卒業生がいわゆる一流企業への就職を志向し続けていることからも明らかである。また、中高年はリストラに脅え、政府は日雇い労働者の正規雇用を企業に強く促している。リストラに脅える中高年は、「俺たちはほかに生きようがないサラリーマンだ。このまま安定的にパーツとして会社に置いておいてくれ」と主張する。また、政府は、使い捨てにされている日雇い労働者を、使い捨てのパーツとして扱うのではなく、一定期間使うパーツとしてきちんと雇用しろと企業にせまる。いずれも、いわんとしているのは、それぞれパーツとしての安定性をきちんと確保しろ、ということであろう。

 日本人全員がパーツになることによって、何らかの国家的な目標を目指すのであれば、これはこれでひとつのシステムとして機能する可能性がある。しかし、その機能が、良い方向に行くか悪い方向に行くかについては注意が必要だ。先の大戦で、日本は欧米を相手に一大戦争をしかけたが、今から思えばほとんど狂気といえる戦争を国家が一丸となって本気で遂行していた。そして、日本国民は全員、そのためのパーツとして機能していた、いや、むしろほとんど全員が積極的により良いパーツになろうとしていた。パーツになりたくない、またはなるべきではないとする輩には非国民のレッテルが貼られ、場合によっては官憲によって拘束された。そして、原爆によって敗戦を迎え、戦後は、まるで何もなかったかのように全員が過去をすっかり忘れ去ってしまった。

 高度経済成長期のように、そして、最近の自動車製造業に象徴されるように、会社というシステムがひとつの機能体として「良い方向」に向かっているのであれば、その機能体を構成するパーツに品質と性能を求めることが全体にとってプラスになると思われる。ここでいう「良い方向」とは、端的には会社が儲かっているということであろうが、例えば、最近までのT自動車は空前絶後の栄華を極めていた。そして、そのT自動車は、下は末端の町工場に至るまで、構成員全員がパーツとして見事に機能しつくしていた。問題は、利益が減少し、また、今後さらなる減少に見舞われる可能性が高い同社が、過剰になった「低付加価値パーツ」をどう扱うかである。期間工労働者に対しては早くも首切りが始まっているようだが、本社に数多く存在すると思われるホワイトカラーの「低付加価値パーツ」に対して、同社が果たしてどのような対応をするのか、非常な関心を持って見つめている次第である。

(続く)

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Column "Hitorigoto"

Vol.13「経営者とサラリーマン Part2」