聖書は、実にとっつきにくい本である。聖書は、新旧あわせて66章で構成されるが、どこをどのように読んでいいのか、いきなり聖書を手渡されても、皆目検討がつかないであろう。「はい、これが聖書です。ここに神のみことばが書かれています。一言一句すべて神のみことばです。じっくりと味わってください」とか言われても、「へー」としか言いようがないであろう。

 ところで、聖書にはいったい何が書かれているのかとよく聞かれる。この問いに直ちに、かつ明瞭に答えられる人はなんてすばらしい人であろう。漏れのような単なる罪人(つみびと)には模範解答は示せないが、罪人なりに意見をのべると、聖書はまず、1.神様がどういう方か、2.神様と人間はどういう関係にあるか、3.基本的に罪人である人間に神様はどのようにして救いを与えたのか、ということを述べていると思う。

 ここで話はそれるが、そもそも「救いとは何だ」ともよく聞かれる。特に漏れの細君はこのことをしつこく聞く。「漏れはイエス・キリストによって救われた」と言うと、「それって、具体的にどういう意味?」と聞かれる。「救われる」とか言われても、いきなりお金が儲かったとか、悟りを開いたとか、あるいは改心してものすごくいい人間になったとか、そんな具体的なイメージを漏れの細君は聞きたいようだ。しかし、漏れの知る限り、キリスト教においては、救いとは「イエス・キリストが自分の救い主であるという事実を知ること」であり、それ以上でも以下でもないと思う。では、イエス・キリストが自分の救い主である事実を知ることとはどういう意味なのであろうか。

 このあたりから話はややこしくなってくるが、キリスト教では、人間はそもそも「原罪(げんざい)」を背負っている罪人であると教える。「原罪って、何よ?」というのがまずほとんどの日本人が発する疑問であろう。「いや、俺はまっとうに生きている普通の日本人だ。サラリーマンとして出世し、ちゃんと税金も納めている。子供も普通に私立高校に通わせている。そういう俺が何で罪人だ?」あるいは、「私は、確かに欠点もある平凡な女だけど、別に人様に迷惑をかけているわけではないわ。それどころか、いつも向上心をもって日々勉強し、毎日家庭を明るくする努力をしているわ」云々

 いずれにせよ、ほとんどの日本人にとっては、この「原罪」を理解することがキリスト教理解の最初の突破口になると思う。漏れ自身、この原罪を理解するのにものすごい時間がかかった。もう少しその辺についての考察を続けてみたい。

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Column "Hitorigoto"

Vol.2「聖書と救い」