しかし、漏れは触れてはならないテーマに早速触れてしまったようだ。キリスト教における原罪とは、キリスト教の教義における、もっとも深遠で重要なテーマのひとつだったのだ。漏れのような浅はかな者が、一朝一夕に語れるテーマではない。

 語れないながらも、漏れが今までに聞いたり見たりしたことはご紹介できると思う。ある先輩の信仰者は、「人の負っている罪は、日本の総負債額(確か800兆円位?)より多く、あまりにも多すぎて認識できない」と言った。また、別の先輩は、「人の最大の罪は、神から離れていること」と言った。また、曽野綾子と三浦綾子の、いわゆるダブル綾子(たまたま同時期に活躍したふたりのクリスチャン作家)のうち、三浦綾子は、かの有名な「氷点」という、原罪をテーマにした本を執筆した。

 漏れは、三浦綾子の本を結構読んだが、キリスト教の訴える原罪については彼女の本から多くを学んだ。彼女は、罪人が罪人なのは、自分が罪人と思えない、ないしは感じられないということが原点であるということを述べている。話は飛ぶが、山崎豊子の小説に「沈まぬ太陽」という実在した日本航空の社員をモデルにした小説がある。その小説で、主人公恩地(おんち)が、腐敗しきった日本航空の社内で、「私は、片目の猿の国の、唯一匹の両目の猿なのです」と吐露する場面がある。腐った社内においては、片目の状態が正常であり、両目の猿はかえって「異常」になってしまうというたとえだ。

 三浦綾子は、自分が罪人だと気付く前は、終戦直後の混乱期に、自分の婚約者を二人重複させてまったく平気でいたと告白している。別のところで読んだあるクリスチャンの書いた本では、敗戦で満州から引き上げる途中の日本人移民団にいた自分が、ソ連軍の追跡を逃れるため、5歳以下の幼児を自ら殺して逃げ延びたという告白を目にした。いずれにせよ、言わんとしていることは、人間は自らをまず大切にするものであり、場合によっては他人を犠牲にする、最悪の場合殺してしまってもいいと思っているという「存在」であるいうことであろう。例えば、戦争というひどい状況においては、自分の最愛の子供ですら殺しても生き延びるということを許してしまう存在である。

 こういうことを言うと、「それは戦争という極限状態にあったのだからやむをえないだろう。そこまで求めること自体が不条理だ」とか、「人間は不完全だからしようがないでしょう。そんなの神様じゃないのだから、最初から求めることが間違っているわ」といった反論が起こるであろう。実は、その反論こそがキリスト教の訴える「原罪」の何よりの証拠であると思う。我々はいずれも完全ではない。いや、完全どころか不十分であり、かつ、まったく至らない者である。不十分な者が、不十分と認めないことこそ漏れは「原罪」であると思う。

 人は、往々にして自分の非を認めず、特に日本人は、かえって「自分は悪くない、自分は完璧だ」と思いたがるように思う。特に、最近の日本のように、すべてが数字で決められる社会においては、成績のいい人間ほどそう思いたがる傾向にあるかもしれない。しかし、数字という、人間社会が決めた尺度に満足して、それをもって「他人は自分より劣る、よって自分より不幸になってもよい」とか、「俺は一流大学を卒業した。よって他人より価値がある」などと勝手に思うのは、その時点で神の教えから反すると漏れは思う。聖書は、人間は誰一人として正しくなく、完全な者はいないと証言している。完全でない者が、自ら完全であると称したり、思ったりした時点で、既に罪であると思う。人間は、誰一人として完全ではない。マザー・テレサですら完全ではない(そういうと、漏れの細君は烈火の如く怒るであろうが)。マザー・テレサだって、心の中では本当に何を考えていたのか我々にはまったく知る由がない。もしかしたら、「ああ、神よ、みこころであれば、たまには六本木の外人バーでしこたま飲んで羽目をはずさせてください」とか祈っていたかもしれないのだ。我々人間に、他人の心の中を知ることは出来ない。

(続く)

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Column "Hitorigoto"

Vol.3「原罪についての、あくまでも個人的な考察」