ところで、漏れに深刻な質問を発したスー・シェフのヘイスース・マシアス (Jesus Macius)の名は、スペイン語読みである(繰り返すが、ヘイスースはメキシコ移民である)。これを英語で読むとジーザス・メイシアスとなる。このジーザスを日本語で読むと、イエスとなる。そう、漏れは、なんとイエスの給料を、彼に有無も言わせず、一方的に、強引にカットしてしまったのだ。なお、そのような仕打ちを受けた当のヘイスースは、給料カットの後も、別段何の文句を言うでもなく、ごく普通に、そして極めて真面目な勤務態度で仕事を続けた。今になって思うと、漏れが彼に対して行った行為、ある日発せられた彼の漏れに対する問いかけ、そして、彼の真面目な態度全体が、ずっと後の漏れの、神を信じるに至った何らかのきっかけのひとつとなったのは間違いないと思う。

 ところで、メキシコ人には熱心なカトリックが多いようで、自分の子供にキリスト教にゆかりのある名前をつけるケースが多い。漏れの買収したレストランのメキシコ人スタッフも、ほとんどがキリスト教に関係する名前を持っていた。ホセつまり英語で言うジョセフ(イエスの父)、ミゲールつまり英語でいうマイケル(大天使ミカエル)、中にはエゼキエル(これはさすがに英語名は聞いたことがない)つまり旧約聖書に出てくる偉大な預言者の名前を付けてもらった小さなティーンエイジャーの皿運びボーイもいた。そんな中でもヘイスースは際立っていた。自分の子供にキリストの名前を付ける親とは、ものすごく熱心なクリスチャンに違いないと思う。日本で自分の子供にイエスと名付ける親がいたとしたら、間違いなく周囲から変人扱いされると思うが、メキシコでは変人どころか、逆に尊敬を集めるものなのであろう。

 ここで話は飛ぶが、日本のクリスチャンの中でも、自分の子供に、特に女の子の名前に、聖書にゆかりのある名前を付ける人は少なくないようだ。旧約聖書のルツ記にちなんで、女の子にルツとかナオミと付けるのは象徴的な例であろうし(なお、ナオミはルツ記に登場するルツの義母の名)、また、マリアという女の子の名前も別段違和感なく受け入れられるであろう。なお、漏れは自分の娘の名前(明里:あかり)を、新約聖書マタイ福音書第5章のみことばからつけた(その当時の漏れはイエス・キリストをまだ信じていなかったが)。

 しかし、日本においては、男の子の名前は、さすがに聖書ダイレクトの命名は少ないと思われる。キリスト教国でポピュラーなポール(パウロ)、ジョン(ヨハネ)、マシュー(マタイ)、ピーター(ペテロ)、サイモン(シモン)、マーク(マルコ)、ルーク(ルカ)等々の名前を付けてもらった日本人の男の子には、漏れはさすがにかつて会ったことがない。犬の名前で聞いたことは何回かあるが、人間の名前ではさすがにない。日本人で自分の男の子供に聖書ダイレクトの名前を付けるというのは、ある意味ものすごく大胆で、かつチャレンジングなことだと思う。

 さて、漏れは前に、「神を信じる」ということはどういうことなのかという疑問を発した。それは、人間の努力によって結果的に得られる、または得る類の人間的行為の産物なのであろうか。漏れのつまらない経験から言えば、それは決してそうではない。漏れは、少なくとも自分から努力してイエス・キリストを信じるようになったのではない。「イエス・キリストを信じるようになるように努力しよう」として毎日努力し、その結果、立派に信じるようになった、というのではない。漏れは、件のヘイスースの一件も含めた過去の多くの出来事、とりわけ漏れに降りかかってきた各種の苦難や試練を経て、「結果的に」神を信じるようになった。漏れは、別に自分でそのようにしたいからそうしたのではなく、逆に、漏れは経験したくもなかったそのような苦難を経た末に、結果的に神を信じるように「させられてしまった」のである。それをキリスト教では神の「摂理」であるとか、神の「計画」であると言うが、その当の「摂理」の対象とさせられてしまった漏れは、苦しい時はただ苦しいだけで、実のところまったくありがたくもなんともなかった。そのような苦難を経なければキリストに出会えないよと、あらかじめ誰かが漏れに教えてくれていたら、漏れは間違いなくそうした苦難を避けるためのあらゆる方策を講じたに違いない

(続く)

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Column "Hitorigoto"

Vol.7「アブラハムを解雇し、イエスの給料をカットした罪深い漏れ Part2」