前回、漏れは「そのような苦難を経なければキリストに出会えないよと、あらかじめ誰かが漏れに教えてくれていたら、漏れは間違いなくそうした苦難を避けるためのあらゆる方策を講じたに違いない」などと書いたが、実のところ、それもありえない話だとも思っている。なぜなら、漏れごとき者が方策を講じて運命を避けられるということが、そもそもありえないからである。漏れの運命を決めるのは神であって漏れではない。漏れがどうあがこうが叫ぼうが、神は神のご計画にしたがって粛々と事を運ばれるだけである。漏れがどの様な方策や手段を講じようと、神のご計画から逃れることは出来ない。人間が、自分の運命は自分で決める、または決められると考えること自体が、最初から間違っている。

 このように言うと、神を信じない人からは、「それでは自分で自分の運命を切り開く努力を放棄している。すべてを神まかせにするというのでは、君は進歩も発展もしないし、社会全体だってけっして進歩しないだろう」といった非難を浴びせられるかもしれない。しかし、漏れは、別に努力を放棄しろと言っているのではない。努力をすることは自分の願望を実現させる必要条件になると思うが、それ自体で十分条件になることはないと言っているのである。努力さえすればすべてが実現するのであれば、ある意味そんな楽な話はない。努力をした上で、最後は神のご意志によって、それを実現していただくように神に祈るしかないではないか、というのが漏れの言いたいことなのだ。我々は神ではない、努力で自分の寿命が延ばせるわけでは絶対にない。ヘイスースが漏れに問うた「なあ健二よ、君に私の命の保証が出来るかい?」という質問はそのことを意味している。自分の力で何でも出来ると考えるのは、漏れはある意味ものすごく罪深いことであると思う。

 また漏れは、自分で努力して神を信じるようになったわけではないとも前に書いた。漏れは、漏れの通っている教会の牧師先生を大変尊敬しているが、先生は、すべては神から与えられており、信仰すら神から与えられたものであり、さらには、すべては神から与えられたものなのだから、什一献金(キリスト者が自分の収入の十分の一を神に返す献金のこと)ぐらいで一々文句を言ってはいけないと言われる。漏れは、まったくもってその通りだと思う。繰り返すが、漏れは必ずしも自らの力によって神を信じたのではない。漏れは、神を信じるという信仰を神から与えられた。漏れは、ずっとキリストを否定し、日本人全員で地獄に落ちても本望であるとすら考えて生きてきた。しかし、結果的に漏れは神を信じるようになった。そして、漏れは今ではそのことを心から神に感謝している。確かに、そこに至った道のりは、漏れにとっては最悪の部類に属するものであったが、漏れがいただいた信仰の恵みに比べれば、別段たいしたことではないとも思ったりしている。

 漏れは最近、漏れが給料をカットしたヘイスースに、ものすごく会いたいと思う。漏れが神を信じていなかった頃、ヘイスースには神を信じない罪人の漏れに、色々と言いたいことがあったに違いない。しかし、彼は、実にたったひとつの問いを漏れに発することによって、漏れの心にひとつの種を、それからずっと後になって発芽する種を、しっかりと蒔いてくれたのだと思う。今、漏れはロス・アンゼルスにいるヘイスースに会いに行って、ヘイスース、漏れも今では君と同じ神を信じているよ、あの時はスマソだったけどゴメソね、と言いたい。そうすると、ヘイスースはものすごく喜んでくれるような気がする。きっと、あわれみ深い神は、漏れのこのささやかな願いを必ずかなえて下さると漏れは真面目に信じている。

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Column "Hitorigoto"

Vol.8「アブラハムを解雇し、イエスの給料をカットした罪深い漏れ Part3」